心の旅文庫
      『内観旅行』


                          



  ●プロローグ


  「納得できません!」

  オフィス中に響く大きな声だった。

  朝礼が終わると、行き先を告げながら次々と部員が営業に出て行く。
  社員研修を請負う会社だけあって、朝のオフィスは見かけ上テキパキ
  としている。

  浅井徳子もすぐに出るところだったが、「5分だけ・・・」と忍田部
  長に呼び止められて、オフィスのコーナーにある部長席の前に椅子を
  置き、向かい合って打ち合わせを始めていた。

  かれこれ15分を経過した頃、その大きな声が発せられた。

  声の主は浅井だった。めずらしく忍田部長にくってかかっている。内
  勤の事務職員と、残っていた数人の営業部員の耳が、一気に二人の会
  話に集中した。

  浅井は前月度、新規顧客獲得と聡売上金額の、全国1位を同時に達成し
  ていた。これだけ成績を上げていても、更に高い要求をつきつけ能力を
  引き出そうとする忍田部長は、浅井を怒鳴りつけることもしばしばあっ
  た。

  しかし、このときばかりは防戦一方だった。

  他部門の新人営業が、浅井が以前から追いかけていた見込み客に、「浅
  井は辞めました」とウソを言って研修を受注したのだ。

  社内の規定では新規顧客へのアプローチはフリーで、どの営業の提案を
  選択するかは顧客の判断に任せている。しかし嘘は当然ルール違反だ。
  それでも、社内のゴタゴタを顧客にさらけ出すわけにはいかない。

  部門長間で話し合った結果、売り上げは折半で分け合う。しかも、今後
  の事を考えれば、良い提案と気配りのフォローで売り上げが見込める浅
  井を担当に据えた方がいい。それは誰もが理解できたが、浅井の力で今
  後も見込める売り上げまで、折半になるという。

  浅井の数字は部の数字でもあるから、これには部員全員が納得しなかっ
  た。この部門は以前にも、この「辞めました」事件を何度か起こしてい
  たが、たまたま受注前に見込み客が教えてくれていたので、大きな問題
  にはならずにいた。

  この部門長にしてみれば、自部門の新人がそうまでして必死に取ってき
  た受注を、無にしたくないのかもしれない。そうだとしても、「新人だ
  から他部門の営業の名前まで把握していないし、本当に辞めたと思って
  いた」という苦しい言い訳が通ってしまうのは不自然だ。

  至近距離で耳をそばだてていた八木啓一はそう思った。

  部門長間の政治的取引か、何かのしがらみのせいか?結局この判断の
  真相は、最後まで明らかにされることは無かった。

  涙目のまま営業に出ようとする浅井に、

  「少し疲れてないですか?身体壊したらなんにもならないから無理しな
  いでくださいね」

  と、八木は声をかけた。

  浅井は出社も退社も殆ど定刻どおり、直行直帰も当たり前だったが、
  毎日夜9時頃まで残業している自分より、よほど神経をすり減らしな
  がら仕事をこなしているように、八木には見えたのだった。

  浅井は、曇った表情を一変させ、無理に満面の笑顔をつくって「あり
  がとう」と言うと、気持ちを切り替えるように、大きな声で行き先と
  帰社時間を告げて出て行った。


  本編 \500